Pythonで顔判定をやってみた
簡単にいろんなことができるのがPythonの良いところ
とか書いたけど、実際にやるとデータを集めにゃならんしパラメタの調整もせねばならんからそう簡単でもないぞ。
などといいつつPythonで使えるopenCVという画像データを取り扱うライブラリを使ってインターネッツから拾ってきた「顔っぽく見える画像」に顔が含まれているかどうかの判定をするコードを(インターネッツに転がっていたコード事例を見ながら)書いてみたのでその結果を発表します。
顔判定するための情報(「カスケード分類器」と呼ばれる機能で利用されるXMLファイルで、正面顔とか笑顔とか左目などもあり)もインターネッツで公開されているやつを利用しますた。この判定の基準となる情報は自分でも作れるらしい。そのためには機械学習用の正しいデータと間違ったデータを1万枚くらい集める必要があるらしい。学習はコードを実行するだけだけど、集めるのがタイヘンでそこで挫折しそうですな。
(学習用データをライブラリを使えば増やすこともできるみたいなので、今度やってみようかな、なんてな)
顔だと判定されたものの例
まずはこれたち。
もちろん人間の顔はきちんと顔として認識されます。ただし今の設定では横向きは認識せんのです。
マスクしてる写真も顔として認識されました。
さてここからが本番です。ヒトがみたとき顔っぽいと思われる画像がAIはどれくらい顔として認識するかお楽しみ。
で、心霊写真とかでよくあるような「地縛霊の顔が見えます」的な写真も見繕っていくつか判定させてみたら、何個か顔として判定されました。
次のは顔と判定されたやつ。
こちらは顔として判定されなかった心霊っぽいやつ
同じような写真でも認識されてないものもある。理由は不明。でもおそらくパラメタの設定かな?
画像が顔だと認識されたりされなかったりする原因を考察すれば、中学生の夏休み自由研究にはなるかもね。
こちらからは以上です。
もみじがりにはおそすぎた?
一週間くらい遅かったかんじ
「我慢の三連休」などと言われていたけれど、地元だし毎年行ってしすぐに返ってこようと思ったりと自己弁護しながら今年もいってみたのが宮島の紅葉狩り。毎年のことだし、のんびり食事でもってこともないし特に風情があるわけじゃないけれど、木々の中を歩き回るのは良いことです。
さっそく鹿がお出迎え
正直紅葉狩りにはちょっと遅すぎたんだが、豊國神社あたりはそれなりに見栄えがする紅葉具合でした。
相変わらず工事中の大鳥居
工事中で、一時取り外されている大鳥居の扁額が厳島神社本殿に展示されている。
今回の目的は紅葉狩りって言うよりもこの扁額をみることでした。高さは3メートル弱くらいかな。
扁額「伊知岐島神社」のうらに書かれた文字天皇家(有栖川家の方らしい)謹書。
こういう時じゃないと見れない。
「厳島神社」の扁額の左右には龍がいました。
本殿では何組かの七五三詣りの人を見ました。このちびっこはカメラマンの人に言われる前にカワイらしいポーズをとってたぞ。
もみじ饅頭を始めとした菓子関連の各社の奉納
紅葉谷公園あたりはほとんど散ってしまってたけど、大聖院あたりはまだまだそれなりの紅葉が見られました。
大聖院前の銀杏の葉っぱも全部落ちて流れてた。
紅葉谷公園入り口 おなじみの橋周辺はこんなかんじ
撮影はヤフオクで手に入れたLUMIX-GF2というもう10年位前のモデルとそのセットレンズで、撮影も絞り優先だのなんだのじゃなく、カメラについてる「おまかせAI」モードで撮ってるんだが、これがきれいに映る。ヘンに個別に設定するよかキレイに写ってる気がするので、このカメラを使うときにはもう「おまかせAI」機能一本ですな。
ということで現場からは以上です。
自転車でくるくる回ったりしてました
愛媛サイクリングの日
前回も書いたけどぼちぼちイベントが再開され始めているカンジですね。でもまたコロナ感染者が増大してきてるってことで、年末に向けてどうなんですかね。
ということで、先週日曜の話ではありますが「愛媛サイクリングの日」っていうイベントで撮った写真をちょこっと公開します。
ほらぶつかるぞ、とビビらし作戦も不発
ジャンプし過ぎでフレームはみ出し
ジャンプ力半端なし
寝っ転がってるヒトを飛び越すパフォーマンスにちょっとしたくすぐりを
望遠持ってったけど、パフォーマンスは意外と近くで行われて縦じゃないと入らない
世界チャンピオンになった経歴のヒトなので流石に安定した乗りっぷりでした。
隣のコースではダートコースで変則レース
ぼちぼち市街地でも紅葉の季節かな。大通りのイチョウも色づいてるだろうし、この間歩道橋を歩いてたらいい感じの場所を見つけたから、そこから撮ってみたりして。
現場からは以上です。
ぼちぼちイベントが開催されはじめている気配
コロナはまだまだ下火じゃないけど
まだまだコロナが終息したわけじゃないけれど、そろりそろりとイベントが開催されはじめている空気がある。
たまたまテレビを見ていたら自転車でちょっと走った先でイベントをやっているという話題が流れてきた。キッチンカーが集結するなどとアナウンサーが喋っているけれど、特に何が食べたいわけじゃない。とはいうもののイベント名でぐぐってみると、夜には光のなんちゃらという名前で、ちょっとしたライトアップがされているらしいので、暗くなるのを見計らって行ってみましたよ。
もう少しいろいろと派手にやってるのかと思ったら、以外と地味で多少拍子抜けだったんだが、三々五々家族連れなどがやってきてひゃーひゃー言いながらスマホで写真を撮ってたから、それなりに盛り上がっててよかったね。
去年いった紅葉のライトアップでも和傘にライト当ててたけど、松山では「和傘にライト」がライトアップの定番として定着しているのかもしれない。下の二枚は去年別の場所で撮ったヤツです。
こちらからは以上です。
久しぶりに写真を撮りました
たいへんバッテリー充電残量がゼロよ
暑いし、その上コロナ禍で外出もあまりしていないしで、今年はあまり写真を撮ってない。なのでレンズにカビが生えてたらどうしようといきなり思いついて、バッテリーを装填してスイッチを入れたんだけどカメラはピクリともしない。もう完全放電ですよ。3本のバッテリー全部完全放電ですよ。なので久々に充電して写真を撮ることにしました。自宅へもどった夏休みにミノルタの古いレンズを持ち帰って、今回はそいつで撮ったのですね。ミノルタの名機α7000の標準レンズだった35-70mm f/4通しのやつです。ヤフオクで5000円位で手に入れたもので、見た目は多少くたびれてて、最短距離が1メートル位なので扱いづらいし(時々間違ってボタンを操作してオートフォーカスが効かないと焦っていしまうマニュアルフォーカスで接写するボタンはついているけど)、古いレンズだからオートフォーカスがカチャカチャとうるさいんだけど、撮れる写真は粒子感があるフィルムっぽくていい感じですわ。
朝夕は涼しいのですが、昼間はまだ暑いので体調管理に気をつけて皆様ご自愛ください。
現場からは以上です。
ちょっと早めの夏休み
夏休みが終わります
コロナ禍の密を避けるために夏休み期間をずらしたのかなと思いつつ、これってもう今年度が始まる前には決まってたことだからそういう意図も特にはなかったのではとも思えるが、まあ今年の我が社が所属するグループ全体は8/1〜10が夏休みでありました。
ということで「三密は避けろ」「移動は自重しろ」「GOTOトラベルなんてけしからん」と言われるなか、近所をうろちょろしましたわ。
厳島神社
春には宗像三女神に参拝したけど、同じ神様が祀られているおなじみの厳島神社へご挨拶へ伺いました(勝手に参拝しただけだけど)
参拝したのは平日だったし、コロナ禍もあって普段と比べて観光客が少ない。
毎年行われる管絃祭も今年は神事のみ。昨年は台風で中止になったりと神様もお寂しいことでありますな。
大聖院の五百羅漢さんたちは三密。暑いのに毛糸の帽子。コロナに気をつけてね。
工事中だった宮島口桟橋が新しくきれいになっとりました。
平和公園
今年の原爆の日はコロナ感染防止の為、式典参加者は限定され灯篭流しも中止になりました。
リニューアルされた原爆資料館(広島平和祈念資料館)に行ってみた。
むかしはそれほど展示されていなかった遺体の写真が増えていたりと全体の印象は春に行った長崎の資料館と同じイメージになってた。
今回のリニューアルで印象的だったのが、展示されているものの持ち主の方々が具体的になっていたことで、それぞれの個人名、年齢に加えて、ご家族のお話などが反映されており、それぞれの人生がはっきりすることで彼ら彼女らが身近に感じられて、こちらに迫ってくるものはハンパない。
大学時代にアルバイト先のおっちゃんが「ワシは幽霊は信じない。原爆直後に死体を河原に積み上げて焼いたが、あれはただのモノだった。あれを見たら幽霊なんて信じられない」と話してくれたことがある。とてつもなく強烈な体験から語られる言葉の印象は強く、今でも時々その言葉を思い出す。
原爆記念館を立ち上げることに尽力された方が、爆心地を知るために広島市内中の墓石のズレた方向を調査して、精密な爆心地を推定したという話は感動した。地道な調査をした意志の強さには感服いたします。
今の広島を始めとする日本の繁栄ぶりを見ると、なんとすごいことだなぁと思う。オレ自身も生まれたのは原爆投下から十数年後で(いまから十数年前っていったら、もう21世紀だよ。そんなずっと昔じゃなく地続きな感覚)、そんな時期に開催したオリンピックは当時の日本人にとって今の日本人とは全く違う意味があったことは容易に想像できる。
知り合いに原爆の被害を受けた人もいるし、これはやはりいつまでも語り続けなければならんことだと思いますわ。